愛児の塔



 本堂の前を通って護摩堂の中を通り階段を登ると、ちょっとした広場がある。もとはここに茶所があって、参詣の人々が休憩したり、茶を飲みながら座って鼓の滝など、周囲の風景を眺めるための施設があった。
 「愛児の塔」はこの奥にある。
 第二次世界大戦が終わって国中の自然や人心が荒廃し、巷にはいわゆる戦災孤児があふれていたとき、当時の住職宮原美妙尼は、そうした不幸な子ども達を救うことを念願し、独力で寺内に養護施設を開き、これを「吉敷愛児園」と名づけられ、各地から多くの孤児を収容した。
 しかし当時は極度に物資が不足していた時代で、収容した園児たちに満足に衣食を与えることもできなかった。わずかな善意の人たちの援助はあっても、到底次々と送られてくる子ども達をどうすることもできなかった。美妙尼はそのなかにあって東奔西走して国や県、市などにも訴えて、少しでも園児たちの環境改善につとめられたが、そうしたなかで昭和二十四年、同二十五年と相次いで収容した園児を失うという不幸に遭遇された。
 戦争で夫君を、そして戦後には残された令嬢を失うという悲しい体験もあって、美妙尼は幼くして死んだ子ども達の霊を慰めるため、慰霊碑の建立を思い立ち、各方面に呼びかけて浄財を集めるとともに、自ら碑の構図をつくって、京都の高橋鐘声堂に発注し、昭和二十六年八月七日に念願叶って、この地に建てられ「愛児の塔」と名付けたれた。
 塔の高さは約二・八メートル、約一・六メートルの台座の上に青銅でつくられた菩薩像は、その名にふさわしくふくよかな温顔で、子ども達を見守るかのようである。
 現在、この碑のなかには全国各地から寄せられた、たくさんの孤児たちの遺骨が納められている。